慎福寺からのお寺だより 「朋輪」 38号発行
お寺や仏教のことを知ってもらい、また皆さんからの意見や要望をぶつけてもらう切っ掛けとして20年ほど前から、お寺からの便り「朋輪」を発行しています。
タイトルは仏教法具の一つである“法輪”と、この便りを慎福寺に縁のある方々との“朋の輪”にしたいという意図を掛け合わせてつけました。
内容はお寺での出来事、お知らせ、住職の話、慎福寺を支えてくれる方々の紹介などがメインです。過去の、あるいはこれからの記事も一部抜粋してこのホームページにも掲載していく予定ですので御愛読のほどを。
年2回(1月と7月頃)の発行で、お寺に置いてありますので自由にお持ち帰りください。希望される方には郵送も行います。
朋輪34号の記事 ~亡き人と生きる人が集う「華香廟」~より
本山通いの仕事が休みのある日の朝、境内へ出るといつもお参りに来ているAさんの姿がありました。
「おはようございます」とお互いに挨拶を交わすと、Aさんはにこやかに「○○に会ってきます」といって華香廟に向かっていきました。
○○は華香廟に納骨されている方の名前です。
建立して二年半が経った当山の合同供養墓「華香廟」には順調にお申込みをいただき、建立したのに申込がない…という状況には陥らず、ひとまず安心しています。
それ以上に嬉しいのは、「華香廟」という墓や慎福寺を気に入って申込をしていただいていることです。
境内やお堂、そして行事などをみて「慎福寺の雰囲気が好きなので」と申し込んでくれる方も多々あり、寺としては嬉しい限りです。
そして、Aさんのお墓参りのような場面を目にすると「華香廟」を建立してよかったと感じます。
これからも「華香廟」の名に相応しく美しい墓であるよう整備して、亡き人の供養を機縁に、生きる人の縁を紡ぐような寺と墓にしてゆきたいと願っています。
「華香廟」には宗派を問わず、「華香廟規則」に同意していただければどなたでもお申込いただけます。
冠婚葬祭のあり方も時代とともに多様化しています。葬儀、供養、お墓の件でお悩みの方はお気軽にご相談ください。
朋輪31号の記事より
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
暑さ増すこの季節、どこかで一度は耳にしたことがあるこの言葉を思い出す方も多いのではないでしょうか。
言い換えれば、心頭は心、滅却は消し去ることです。
「心の働きを消し去ってしまえば、暑さも苦にならない」と解されているこの言葉は、中国唐代の杜荀鶴の詩の一部を日本の禅僧が好んで用いたことで広まりました。
確かに心頭滅却というのが仏教(禅)的な感じはしますが「心の働きを消し去ってしまうなんていうことが出来るの?」という疑問も同時に湧いてきます。
五感で感じ、心が右往左往しているのが私達の日常ですから、心頭滅却なんていう離れ業は想像しがたいのも当然です。
話は変わりますが、以前から多くのフリーダイビングの選手が瞑想(ヨーガ)をやっていることに興味を持っていました。フリーダイビングというのは体ひとつで海中深く潜り、再び浮上してその深度を競う競技。世界のトップレベルでは無呼吸で水深百メートルを超える潜水が行われます。
当然、死と隣り合わせの過酷な競技ですから、精神集中のために瞑想(ヨーガ)をやっているんだろうな…と漠然と考えていましたが、それだけではないようです。
人間の体の中で最も酸素を消費する臓器の一つが脳です。水中で不安や焦りが生じると脳が活発になり酸素を大量に消費してしまい、酸素不足に陥り記録が伸びず、生命も危険にさらされるそうです。だから瞑想(ヨーガ)を行い脳を冷静に保ち、心の波を鎮めて潜るのだと知って、冒頭の言葉を思い出しました。
私達の人生や日常を深い海に潜ってゆく行為に重ね合わせてみるとどうでしょう。
不快、不安、危険なことは多々あるけれど、時に美しく豊かな世界をも見せてくれる海を深く長く旅するには、心頭滅却の穏やかな心が必要なのかもしれません。
朋輪28号の記事より
新年あけましておめでとうございます。
旧年中の皆様のご厚情に感謝するとともに、新しい年が皆様にとって素晴らしいものであることをお祈りしています。
さて、新年のご挨拶の直後に少々場違いかもしれませんが、当寺でのある納骨法要の際のことです。
「墓への納骨に立ち会ったのは初めてだったけど、みんな最期はああやって還ってゆくんですね…自分もあんなふうに誰かに葬られたいなという気持ちになりました」
納骨法要後にお茶を飲みながらこう語ってくれたのは列席していた私と同年代(四十才前後)の男性でした。
年齢的に仏事等に関心がある世代とは思えなかったのでちょっと意外だったことと、その何気ない言葉が嬉しかったことを記憶しています。
そして「それにはやっぱり見送ってくれる相手を見つけないとだめですね…」と冗談交じりに微笑んでいました。
いいお相手に巡り合えることをお祈りしています。
そして、墓や仏事が生きる人の日々の一歩一歩を後押ししてくれるものであることを願っています。
朋輪25号の記事 「寺庭から」より
副住職の家内の慎子(ちかこ)と申します。早いもので結婚して十二年になりました。
埼玉県でごく普通の家庭の一人娘として育ち、実家を離れ学生生活の後に東京でOLとして働いていました。その私が何故かその後、副住職と人生を共に歩む決意をし、突然奈良の長谷寺での生活が始まりました。私自身も両親も馴染みのない関西の土地で、しかもお寺での生活だなんて全く想像もしていませんでした。
ご存知かと思いますが、長谷寺は山々に囲まれて四季折々の花が咲きます。自然を間近に感じながら日々を送り、蛇やムカデ、イモリに蛍にムササビまで、それまで見たことないものばかりで新鮮な驚きの日々でした。
始めは慣れない生活環境と友達がいない寂しさでどうなるかと思いましたが、長男が生まれ、次男が生まれ、気がついたら長谷寺生活の中で自分の場所ができていました。
不思議なものですね、九年間暮らした長谷寺を離れる時は涙が止まりませんでした。
今は、慎福寺に入り、住職と住職夫人である義母と共にお寺を守る日々です。この場所でまた色々な方と出会い、経験し、学んでいけたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
第17号の記事より
お葬式や供養について一緒に考えましょう
- 岐阜県に先祖代々の墓地があるAさんは、ご主人を亡くし今は鈴鹿で一人住まい。県内に息子、娘がいるものの息子は独身、娘は嫁いでいるため後継ぎが不安。先祖代々の墓を慎福寺に移すつもりでいたが思案中。ご主人は「散骨でいいよ」と言っっていたこともあったが、そうも割り切れずに今に至っている。
- お大師さんの日にご夫婦でお参りに来た信者のBさん。実家の宗旨は浄土真宗で墓もあるが、自分たちは分家だからそこには入れない。自分たちの墓をと考え寺に相談したら、子供もいないため無縁墓になるからと断られた。
- 「滋賀で仕事をしている一人息子家族は、もう鈴鹿には戻ってこないだろう。でも、私は鈴鹿で生まれて鈴鹿で育ったから死んだらここの墓に入りたい」といつも言っていたCさんのお骨は、その遺志がかなわず息子さんに引き取られていった。
- 大阪の合祀墓(複数の人のお骨を一緒に納める墓)に母親のお骨を納め供養した。以来十年がたち、今では自分たち家族一家の墓を建立して母親を埋葬してやればよかったか、と自問自答している。が、お骨は返ってこない。
- 関東出身のご夫婦で仕事の関係で鈴鹿市へ移住。定年を迎え、時折関東へ墓参りに行く。近くに墓を移すか迷っているが、子供達も転勤が前提の会社勤め。墓を移したところで守ってゆけるだろうか。
これらは実際にあった話であり、慎福寺に寄せられた相談の一部です。(プライバシーの問題もあるので、名前や地名は一部変更してあります。)
少子高齢化が進み、核家族化した世帯が仕事で転居を繰り返す。離婚も珍しいことではなくなり、生涯未婚率は上昇の一途が予想されています。
こうしたことは、地縁血縁に縛られず、自分の生活スタイルを自由に選べる世の中になったことの顕れでもある反面、地縁血縁の希薄化をもたらし、地縁血縁に寄りかかりながら行われてきた葬儀や供養が、これまでの方法では継続困難になってきていることを意味します。
一方で葬儀や供養の選択肢は増えました。
葬祭業者は、これを商機として様々な葬儀プランを提案しています。山や海へ遺骨を撒く散骨、墓石の代わりに好きな木を植える樹木葬、遺骨をロケットで宇宙へ送り出す宇宙葬、遺骨を宝石などに加工して身近に置いておく手元供養まであります。
家の後継者が喪主を務め、親戚縁者が寄り合って葬儀を行い、先祖代々の墓に納骨して、以後の供養を担ってゆくという従来の葬儀や供養の在り方がまだ主流ではあるものの、そうとばかりも言っていられないのが現状です。
葬儀やその後の供養という観点から、どうすれば安心して人生の最期を迎えられるのか?大切な人を納得のいく形で送り出し、無理なく供養を続けてゆくにはどうすればよいのか?
冒頭にあげたような事例に直面するたびに考えさせられます。
僧侶として、葬儀にあたっては遺族や会葬者と共に、心を込めて亡き人を送り出したいと願っています。遺族の方にしてもその思いは同じでしょう。
そのためには、一人一人がどうすればよいのかということを考える必要が、これからはあると思います。
宗派の伝統に則る厳格な葬儀、地域の風習に根差した供養を継承すると同時に、様々な人生の最期と、残された遺族のおもいを中心にして、新たな葬儀供養の在り方を一から考え直すこともお寺の責務だと感じています。
最期を託すという時に選ばれるお寺であり、僧侶であるように、皆さんと一緒に葬儀供養の在り方を考えていきたいと考えています。
第14号の記事より ~近藤先生の碑~
先日ある檀家さんから境内の大きな石碑に刻まれた文章について尋ねられました。
内容は明治時代に神戸近在で学校教育に尽力された近藤達(こんどうさだむ)先生の功績と徳を称えるものです。
「朋輪」14号にも掲載したので碑文の内容をここに掲載します。
近藤先生の徳をたたえる碑
近藤先生(以下先生と略す。)の名は達(さだむ)。鹿斎と号す。本姓は藤原氏にして鎌足公の末裔。幼くして神戸藩の儒学者服部松渓の門に入り孔孟の教えを受ける。松渓は先生の誠忠で純朴な人柄を愛し、よく教えた。また先生は藩の算師である鈴木芳兵衛にも算法を学び、その能力で師を驚かせた。
その後、明治維新の際に頽廃した学校制度を憂慮した先生は、明治三年二月、神戸西町に子供を集めて学芸を教えた。学ぶ子供は徐々に増えはしたものの、あまり振るわなかった。先生は「これは私の力の及ぶところではない。神仏の力をたのむしかない」といって鶏足山の千手観音に参ること七昼夜。ついに教育の根本要諦を感得して喜び勇んで山を下りた。
家に帰ると菩薩の教訓を奉じて子弟を教えた。門下は大いに振るった。このとき同門の友人である福井鹿川が先生に仕官を勧めた。しかし先生は「教育を終世の仕事にする。自分の利益のためにその道を曲げるわけにはいかない」といってついに仕官しなかった。
明治七年一月に神戸学校助教(教諭の助手)となり、同十三年一月には西河野学校を創立した。
当初は自宅を校舎に充て、翌年には校舎を新築。十月三日に開校式をあげた。これが神戸町近郊での学校新築の先駆けとなった。明治十八年九月には西河野学校の訓導(教諭)となり、同二十五年六月に本校が飯野村尋常小学校になった際に先生が校長となった。
明治三十四年に先生は病に臥せ、同二月二十三日、亨年五十二歳にして亡くなった。門下生らが集まり慟哭する様子はまるで実の親を弔うようであった。神戸町慎福寺に埋葬される。
先生はいつも学用品を購入しては児童に与え、学ぶことを応援して喜んでいた。そのため没後に財産は残さず、弟子たちが資金を集めて遺族の家計を助けた。
先生は嘉永二年十二月生。父は十太夫といい神戸藩の柔術師範であったが勤王の志を抱いて早くに亡くなった。先生は父の遺志を継ぎ、教育にあたっては忠君と孝悌ということを大事にした。子弟を教え導くのに極めて親切丁寧で比類がない。虚飾を捨て去り実直。誠実な人柄によって先生の門下からは有力者が多く輩出された。
今、弟子達が互いに相談し、先生の徳は山よりも高く、海よりも深いということを石に刻んで後世に伝えようとしたところ、皆大いに賛同してこの碑の造立に至る。田中文部大臣(第三十九代)より題字をたまわる栄を得て、慎福寺に碑を建てることができた。先生は生前には身をもって人を教え導き、亡くなってからは碑によって人を感化する。慎福寺にひときわ高くそびえる神聖な碑はまさに世に受け継がれてゆくべき教えの鑑である。
昭和六年二月 梅亭服部勝吉 謹撰。